ASUNA YAMAUCHI

UNTITLED

 
ソレについて 1/7
 
ソレはこの大地にかつて生きていた、全ての者を包括していた。だからソレは一つの完全な歴史であったし、一つの完全な墓場でもあった。
ソレは全ての形になった事があるが、今はなんとなく、人間のように見える。だけれど、ソレが「彼」なのか「彼女」なのか、容姿も年齢も考えている事も、正確なところは誰にも分からなかった。



 
ソレについて 2/7
 
ある人にはソレが天真爛漫な少女に、また別の人には理知的な老人に見えた。ソレが燃えるように烈しい青年に見えた女性は、自分を見失うほどの恋に落ちた。奇跡を起こす聖人だと思い込んだ者たちは、家族さえも犠牲にして信奉した。妖しいくらい美しい声に魅了された男性は、ソレを深い水底に沈めた。



 
ソレについて 3/7
 
他にも人々は、ソレにいたずらに暴力を振るってみたり、覗き込んで好奇の目で見つめてみたり、長寿を願って食べてみたりした。ソレは愛された分だけ憎まれ、憎まれた分だけ愛された。
しかし人々が何をしようとソレは全くどこも傷つかなかったし、何かを求められても全く何者でもなかったし、何がどうなろうと実のところ全くの無関心だった。



 
ソレについて 4/7
 
ソレは移動するだけだった。とても自然にその場に入り込んで、とても自然にその場から居なくなった。だから誰も気付かなかったが、ソレは移動していた。時には怠惰に思えるほど緩慢な動作で、移動していた。ソレには意思は無い。ただ、総意はあった。ソレは総意を元に、一点に向かって真っ直ぐに移動していた。



 
ソレについて 5/7
 
ようやくソコに辿り着いた時、ソレは初めて一個人として存在した。ソレがソレである事に変わりはなかったが、確かに自分としてソコに立ち、自分としてソコに影を落とし、自分としてソコで重力を感じた。ソコという場所で、ソレの体は制約の多い肉の体になった。



 
ソレについて 6/7
 
ソコはソレの頬を撫で、少し目を細めて微笑んだ。ソレはソコを幸せにしたいと思った。けれど、完全な幸せはソレの中にもソコにも無かった。ソレはソコの手に自分の手を重ね、ソコを見つめ続けた。



 
ソレについて 7/7
 
太陽と月はソレとソコの上を何度も回った。
ある日ソコが死んだ時、目も耳も口も鼻もソレには必要無くなった。ソレの体はソコを抱きしめたままボロボロと崩れ落ち、あっと言う間に消えてしまった。ソレが何かになることは、もう二度となかった。
あとの世界では砂一粒にも、何もかもが在り何も無い。
blank

 
0 ソレという統合意識の中・思考の残骸
 
 石造りのアパートに囲まれた小さな広場、噴水の水飛沫が光を反射させて眩しい。私は目を細める。
 君は空を見上げていた。白い雲が浮かぶ青い空。青い、青い空。君は何を考えているのだろう。君の影が、広場の黄土色の石畳の上に黒く落ちていた。私は声もかけずに君を見つめていた。君を見つめ、立ち尽くしていた。ひどく懐かしいような気がして、なんだか声をかけることができなかった。
 君は私の視線に気が付いていた。ふいに私を見つめ返して、優しい顔で微笑む。まるで何も無かったように、全てが平穏であるとでも言うように、離れる事は無いとでも言うように。だけれど、それが反対に私を怖がらせる。
 結末は決まっているのだ。全てが足場を崩すように壊れていく。私はまた、君の事を探さなければいけない。目眩がするような徒労を繰り返す。探して、探して、やっと見つけて、強く抱きしめても消えてしまう。美しいものは壊される。君も何度も壊されて、私は君の手を掴んでいられなくなる。
 今はもう、壊れたものにしか君を見る事ができない。私は壊れたものを愛している。悲しいはずなのに、壊されたものは美しいものだから。
 しかし…君はこんな風に無口だったかな。君の体はこんな風に冷たかっただろうか。壊されたものは君のようには動かない。君に似ていると思ったものが、途端に違うものに見える。分からなくなる。愛している。でも分からない。君はどんな顔だった。君はこんなだったかな。
 目的は君だけだったのに、探して壊れたものを愛し続けた私には、もう君がよく分からない。愛しすぎた事は罪だった。だから罰として分からなくなる。そして分からない君にまた会いたい私だけがいつまでもこの世界に取り残される。
 君を探すのにはもう疲れた。もう二度と探さなくてもいいように、私は消えて無くなりたい。