ASUNA YAMAUCHI

Nameless brains

Now completely gone
 ここは、私にとって思い出深い場所だ。
 子供の頃、夏休みはいつもこの山間の別荘で過ごしていた。群青の空に樹々の緑、白い入道雲。穏やかに時間の流れる、長い休暇の風景。
 その記憶ゆえに、今の雪積もる月下の佇まいは、私の覚えていた様子とうまく一致しない。まるで初めて訪れた場所のような気持ちで雪を踏みしめ、罠を仕掛けていく。
「少しの間だけだ。きっと全てがうまくいく…」
 扉の開く音が聞こえて家の方を振り返ると、私の恋人がブランケットを羽織ってバルコニーに出てきたところだった。
「おーい」
 彼女は私に気付かぬ様子で、バルコニーの欄干に手をかけて月を眺めている。もう一度声をかけようとして、やめた。不思議なもので、こうして離れて見た彼女は、いつもの明るく笑っている印象と違い、ひどく儚げだった。
 いつだってどこに居ても一際目立つ人だ。しかし今の彼女には、風景画の中に描かれた人物のような、誰でもない者の持つ美しさを感じる。
 彼女は一人きりで、何を考えているのだろう。私が側に居ない時の彼女は、一体何を思っているのだろう?今まで考えた事も無かったが…。もしかすると、私は私と居る時の彼女…ただその一面しか知らないのかもしれない。
 こんな風に思うのは、月が美しすぎるからだろうか。漆黒の中で冴える満月には、見知ったものを何か別物に変えてしまうような気配が漂っている。
 思い出したように、寒さに体が震えた。私は急に心細くなり、彼女に声をかけて駆け寄った。
 彼女は「いつからあそこに居たの?」と、私のよく知っている顔で笑って、そして少し間を置いて言った。
「最後まで見ることのできない夢のように思うのよ」

Ⅵ: 恋人たち
the lovers
blank

白い子ウサギ
≪悪魔の化身と信じられていたウサギを窓から投げる祭事が、この町では行われていました。≫

 私はウサギが欲しいと思った。白くてフワフワした、生まれたばかりの子ウサギだ。掲示板に引き取り手を探しているという貼り紙があったから。一目で好きになった。きっと暖かくて、柔らかくて、私の周りを元気いっぱいに跳ね回る。大切にして、いつも一緒に居ようと思った。
「お母さん、私、この子が飼いたい」
「ウサギさんはお引越し先には連れて行けないの」
「…この子の住むお家を探してるって書いてる。お家が見つからなかったら、この子どうなるの?」
「駄目なものは駄目なの。…大丈夫。きっと、うちよりももっと幸せにしてくれる誰かがこの子を貰ってくれる。こんなに可愛いんだから」
 私は頷いてもう何も言わなかった。
 数日後、子ウサギが死んだと聞いた。貼り紙を出していた家の子どもが友だちとアパートの3階から地面に落とした結果、死んでしまったらしい。
 事情を知る人に「どうして子ウサギを殺してしまったの」と訊くと、落ちても死なないと思っていたみたい、と言う。「殺そうと思ってたわけじゃないんだよ。だから責めないであげてね」
 ばかみたい。と私は思った。
 馬鹿みたいな理由で、白い子ウサギは死んだのだった。私以外の人に貰われて幸せになるんじゃなかったの。
舞台袖
on the stage

箱 ■□
 簡単に表に出せるのは、それが根深く心に食い込んでいないから。
 禁止という箱の外に、さらに抑圧という箱を重ねていく。
 箱とは厄介なもので、外箱が丈夫な素材になっても、人好きのする化粧箱になっても、中が闇で満たされていることには変わりない。それどころか、ますます黒を強めていく感覚さえあった。
 真っ暗な箱の中が辛いから、何かを心の頼りとしなければ生きていけない。初めて見た光が、私の心の拠り所になった。
 それと同時に、私は箱を開ける事が恐くなった。箱の中では自分にだけ降り注ぐ光が、私のものでないと知ってしまったら、耐えられないと思った。光の下に箱の中身を曝け出す事にも、嫌悪感があった。尊重や配慮といった聞こえの良い言葉を並べて、さらに箱を重ねる。こうして遠ざけるのに、隙間からは必ず光が差し込む。暗い場所から逃げ出さないその光に救われ、何よりも大切に想う。
 箱と光は、性質がまるで違う。何もかもが違う。
 しかし光は、私よりも強い禁止と抑圧の箱の中に在るように見えた。私には光が必要だった。けれど、必要だからという理由で、光の箱で在り続ける事を強制するなんて嫌だと思った。光にも、空のように爽やかな晴れの日があれば不穏な曇り空や肌寒い雨の日があったって良いはずだ。嵐も雷も私は平気な方であるし。夜道を照らす月が無い夜も、星が綺麗に見えるものだから。
 だからまず私は箱を捨てなければならないと考えた。箱がある限り、光を必要としてしまう。最初に一つ捨ててみた。気が楽になった気がした。半分捨ててみた。何かが違う気がした。
 箱を重ねすぎて自分の辛さばかりが大きくなっていたけれど、箱には、対外的に必要だから存在している側面も在った。つまり箱が全く無い人とはただの全開状態で、接する相手の事を何も考えない。素直は美徳かもしれないが、一般的に善と言われる素直さは相手の存在を考慮している。自分を抑える事ができない心には、相手にあげられる居心地の良さは存在しない。
 私は箱に窓を取り付けてみる。玄関を用意して、調度品を買いに出掛ける。時々仲の良い友人が遊びに来る。食卓に花を飾ってみる。無機質だった箱が居場所という名の家になり、人間であることに救いなど無くても良いかと思うようになる。今まで、幸せにしてあげられるようなものはこの箱の中に何も無かったけれど、少しずつ増えてきた気がして嬉しくなる。
 私は単調な面しか持たない箱ではなく、複雑な思いがある人間であると再認識する。日常を生きていて、よくできたと自画自賛する時もあれば、馬鹿だなとか無責任だと自分に失望する時があり。嫉妬を家のクローゼットに押し込めて、素知らぬ顔をする時もある。悲しい事があれば泣いて、楽しい事があれば笑う。優しい人たちと出会って、世界が美しく見える事に感謝する。
 それでもやっぱり、あんなに心動いたのは本当に一つしか無かったなと思う。窓から満月を眺めて想う。

おやすみなさい

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MEMO